目次:
今回のインタビューについて
落合啓士さんのプロフィール
インタビュー本編
失明宣告を受けながら過ごした学生時代
ー“将来失明する”という現実を信じられなかった
ー目が見えづらいことを周りに悟られたくなかった
ーショックといら立ちが募る中学時代
失明との向き合い方
ー18歳で目の見えるおっちーは死んだ
ーなかなか障がいを受け入れられなかった
ー初めて障がいを受容できた瞬間
ポジティブな価値観・考え方
ー自己承認の回数を増やす
ー限られた時間をいかに楽しく過ごすか
ー結局僕らは1人では生きていけない
編集後記
今回のインタビューについて:
私たちいきかたずかんが所属する牛島利明研究会には、3つのソーシャルプロジェクトがあります。その中の一つUnispoは、誰もが過ごしやすい社会の実現を目指し、障がいを持つ方々との関わりも多いプロジェクトです。
今回はそんなUnispoの活動に長年協力してくださっているブラインドサッカー元日本代表の落合啓士さんに、ご自身の人生を振り返りながら価値観の変化をお話して頂きました!
「目が見える人生」と「目が見えない人生」を、両方とも経験していらっしゃるおっちーさん。今その目が見据えているものは何なのか。最後までお楽しみください!
落合啓士さんのプロフィール:
ブラインドサッカー元日本代表。18歳で失明し、25歳でブラインドサッカーに出会う。2020年3月9日に現役を退き、Youtubeチャンネルをスタートさせた。現在は視覚障がいに対するイメージを変えようと精力的に活動している。愛称は「おっちー」
“将来失明する”という現実を信じられなかった
ー小学生時代はどのような子供だったんですか?
小学生の時はまだ目が見えていて、体を動かすことが大好きなやんちゃなサッカー少年だったよ。学校の先生に怒られて、廊下に立たされたこともあったなあ(笑)サッカーは地域のクラブチームと学校のクラブで6年生まで続けていたんだけど、4年生の時に目の病気があることを知って、5年生になって徐々に視力が落ち始めて、夜盲症*の症状も現れたから、6年で辞めてしまったんだよね。
*夜盲症=暗いところや夜になると視力が著しく衰えて目がよく見えなくなる病気
ー将来失明すると宣告されたときの心情は?
まだ全然見えてたから他人事でしかなかったね。毎食後に薬を飲みなさいとか、紫外線を避けるためにサングラスをかけなさいって言われていたけど、ちゃんとやらなかったかな~。やっぱりまだ自分が失明するという将来を受け入れられていなかったんだよね。
ーお母さんの注意を破ってしまった過去の自分への後悔はありますか?
ないかな。僕の信念として、「過去は振り返っても後悔しない」っていうのがあって。過去の出来事すべてが今の自分を形成しているって考えるから、あのとき違う選択をしていたら違う道があったかなあと想像することはあってもネガティブな方向に考えることはないかな。
目が見えづらいことを周りに悟られたくなかった
ー見えづらくなり始めてから何か変化はありましたか?
サッカーに支障が出ることはあったかな。小6の時にサッカーをしていて、どうしてもまぶしい瞬間や見えづらい瞬間があって、上手くプレーできないことがあったんだよね。でも、チームメイトには「ごめんごめん、ぼ~っとしてた汗」って言ってごまかしていたなあ…
ー目が見えづらいことを隠していたのはなぜですか?
当時ってまだ障がい者に対する差別が露骨な時代だったんだよね。だから、自分がいじめられる側になるのが嫌だったから、隠してたかな。中学校に入ってからも隠し続けてた。国語とか英語とかって音読させられるじゃん?中学生の頃は既に教科書が読みづらくなっていたから、上手く読めなくて目が見えないことがばれるのが怖くて、当てられないためによく寝たふりをしていたね。
ショックといら立ちが募る中学時代
ー中学の部活は何をやっていたんですか?
柔道部!というのもサッカー部を諦めなきゃならなかったんだよ。夕方の練習とかボールが見えづらいから。小学校6年間サッカーだけを一生懸命やってきたのにそれを奪われてしまって、ショックすぎて泣いたね。自分はやりたいのに出来ないというのが悔しくて、もどかしくて、自分の目の病気をその時は恨んだなあ。
ーサッカーを嫌いにはなりませんでしたか?
それはなかったね。僕が高校にあがるときにちょうどJリーグができたんだよね。自分の街に横浜・F・マリノスっていうサッカークラブがあって、マリノスも強くて応援していたから、サッカーを嫌いになることはなかった。目の病気や環境を恨むことはあったけど、サッカーという競技を恨むことはなかった。それは今思えばよかったなあ。やっぱり、サッカーを嫌いになっていたら、ブラインドサッカーをやることもなかっただろうし…
ーサッカーが出来ない悔しさはどこで発散していたんですか?
親や兄弟、学校に八つ当たりして発散していたかな…家族に何を話しかけられても「うるせえな~」って返して、家族にはすごく迷惑をかけたね。大人になってから謝罪したけど、当時の怒りの矛先は家族に向いていたな。ちなみに、すぐ上の兄が同じ病気で失明していて、遺伝性の疾患なんだよね。僕はすごくその兄に敵対心を抱いていて、同じ道を歩むものか!って。その反骨心のおかげで、めげずに頑張れたのかなあっていうのはあると思う。当時は荒れてたから、家族からの同情とか愛情というものをあまり感じていなかったな。
18歳で目の見えるおっちーは死んだ
ー失明したときはどのような感情だったのでしょうか?
いやもうなんだろうなあ…もちろん自分の視力がどんどん落ちている自覚はあったけど、0.3くらいは見えていたし、バイトもしていて、夜も街灯がついているから白線も見えていて、まだなんとかなるかなって思っていたんだよね。そんなとき、ある朝目を覚ましたら目の前が真っ白だった。やばい、ついにきたかって思ったかな。でも顔を洗えばとれるかも!っていうありえない期待をしてみたりしたけど、やっぱり目の前にかかる白い靄はまったくとれなくて、病院で視力が0.01って事実を叩きつけられた。見えなくなって、生きる希望を失って、一度死ぬことを考えたね。
ー死を考えたんですね…
そうだね。もちろん病気が発覚して、サッカーを諦めた時も悔しくて泣いたけど、その時はまだ目が見えてたから、人生これから色々な可能性があるなって思えてた。でも見えなくなると、目の見えない世界に対する自分の事前知識が少なくて障がいを受け入れられていなかったから、絶望しかなかったんだよね。だから、目が見えない中で歩道橋にのぼって飛び降りようと2時間くらいずっと車のテールランプを見続けていた…
ーそこからどのように思いとどまったのでしょうか?
いざ飛び降りようと考えたけど、死ぬ覚悟や勇気がなかったんだよね。あとは、僕が死んだときにどうなるかなって考えたときに友人や彼女のことがよぎったり、楽しかった思い出がよみがえってきて、そのおかけで思いとどまれたというのはあるかな。でも目が見えなくなって、見えてる人生が1回終わったときに、人間関係も1回リセットしようって思いになったから、友人たちとの関係は断ってしまったんだよね。僕は目の見える世界とは異なる世界に暮らしているんだ……住む世界が違うんだ…って勝手に思ってしまって。
なかなか障がいを受け入れられなかった
ー障がいを受け入れられるようになるまでの経緯はどのようなものでしたか?
目が見えなくなって、家に引きこもっていたら、親が「盲学校に行ったら?」って言ってくれたんだよね。今までは、「盲学校に行きなさい」っていう命令形だったんだけど、そのときは「引きこもっているんだったら盲学校に行ったら?」っていう提案の言葉だった。その言葉が当時の空っぽな自分に染みわたったんだよね。当時の自分は、目が見えないんだったら盲学校に行って、鍼灸マッサージの資格をとるしかないって思っていたから、親の言葉もあって盲学校に行ったよ。
ー盲学校に行って何か変わりましたか?
見えない自分の生活には慣れてきたけど、白杖を持って歩くことに慣れていたか、受け入れられていたかと言われたら嘘になる。地元では、かつての友達に白杖を持って歩いていることを見られたくなかったから、白杖はしまって、感覚だけを頼りに家に帰っていたな。スポーツが好きだったこともあって、視覚障がいのスポーツであるフロアバレーボールやゴールボールにも取り組んで、それなりに楽しかったけど、やっぱりまだ障がいを受け入れられてはいなかったね。自分も障がい者なのに障がい者に対する偏見を持っていて、盲学校でも、生徒のみんなと一緒にされたくないという思いから最低限の接し方しかしてこなかったな。18歳からブラインドサッカーに出会う25歳まではもやもやしながら過ごしていて…白杖を持っている自分に対して向けられる「あの人目が見えなくてかわいそう」っていうのが嫌だったなあ。
初めて障がいを受容できた瞬間
ー25歳でブラインドサッカーに出会ってみて…
心の底から障がい者を受け入れられるようになったのは、ブラインドサッカーを始めてからだったね。人間関係も良くなっていったし。あとは、今まで盲学校でテストの点数も出席日数もギリギリで適当に生きてきたけど、この出会いを機に仕事のスタイルとか、自分の人生についてちゃんと考えるようになったかな。
ーブラインドサッカーを初めてプレーした時はどうでしたか?
正直ね最初は、目の見えない人がどうやってサッカーやろうんだろう?っていう単なる好奇心で行ったし、小学校6年間サッカーやってたし、少しなめてた部分があった。でも実際練習してみると、ドリブルやトラップ、シュートとかまずできなかったね。あと、ブラインドサッカーのドリブルって目の見えている人がやるドリブルとは少し違うから、ブラインドサッカーのドリブルをやった時に「これはサッカーじゃない。」って思ってた。その時の僕のメンタルは、もともとなめていた部分があったから、ブラインドサッカーを出来ない自分が悔しいとかではなく恥ずかしくて仕方がなかった。だから、この1回目の打ちのめされた練習を経て、今後ブラインドサッカーは続ける気は無かったかな。
ー続ける気は無かった…でもどうしてブラインドサッカーの日本代表に?
それはね、1回目の練習が終わって着替えている時に、人が足りないから3月の大会に出て欲しい!とお願いされて…ちょうどスケジュールが空いていたので承諾したんだ。でも興味はなかったので、その間も練習は全くせず(笑)で、大会本番もボールに触った記憶はない。でもなぜかその何ヶ月後かに8月の日本代表選考会の連絡が来たんだよね。今思うと、走り回ることに対しての怖さはなくて、ピッチの中をボール追っかけて走り回ってたっていうのはあって…そこが評価されてたのかなとは思うね。日本代表選考会も「奈良だから観光気分でいこ〜!」と思って、その間も真剣に練習はしてなかった(笑)けど、合格通知が届いた時に、日本代表になりたくてもなれない人は大勢いて…応援してくれる人もたくさんいて…こういう人達の気持ちを考えたら、今までのなめた態度は申し訳ないと思った。だから次の11月アジア大会に向けては、9月からずっと毎週練習に励んだね。
ーアジア大会本番はどうでしたか?
試合前の国歌斉唱の時に、自分が子供の頃抱いていたサッカー日本代表の姿とリンクして、自分の夢がやっと叶った感じがしたね。ブラインドサッカーでも、掲げる日の丸の大きさや重みは日本代表として変わらないからさ。そこから自信もついて、目の見えない自分の障がいに対しても受け入れられるようになったかな!もし目が見えていたら日本代表なれていなかったかもしれないと思うと、目が見えなくなってよかったなあ〜って思えるようになったよ。
自己承認の回数を増やす
ー「ポジティブおっちー」このマインドはどうやってできたんですか?
ポジティブに変われた理由って言うのは、失敗も含めて自己承認できる回数が増えていったからかな。
失敗した時は、「この失敗の倍くらい幸せになるための材料なんだ!」と思うようにしていた。こういう意識をしていく中で、ポジティブのマインドができていったんだと思う。
ーなるほど…いつから「これは成功のための失敗なんだ」という考え方に?
ブラインドサッカーを一生懸命練習していくと、最初は何もできなかったんだけど、ある一瞬できた感覚に陥った時、そのほんの少しの成功体験がものすごく嬉しくて…その良かった時の自分を、目が見えないからこそしっかり分析しないとサッカーって上手くなっていかないのね。だから、今のプレーは軸足が良かったのか、それとも上半身が良かったのか、それともスウィングする足が良かったのかとか分析するようになっていった。こういう練習を続けていくと、日常生活でも何か失敗したら「なぜ失敗したのか、次失敗しないためにはどうするべきか」分析するようになって、それを糧にいつか幸せになってやるぞ!っていう考え方に変わっていったね。
ーなかなかおっちーさんほど行動力あるポジティブな人っていないですよね(笑)
そうだねぇ〜、障がいを持った人は特に消極的な人が多いかもね。視覚障がい者は、視覚障がいという感情がブレーキをかけたりして…目が見えない分、余計周りからの目を気にしたりとか。そういう意味では、ポジティブって言われる僕でも、喜怒哀楽の感情はあるよ。でも瞬間的にネガティブな感情になったりするだけで、そのことが過ぎればもう過ぎたことは過去だから変えられないし、未来を楽しくするためにはどうするかをすぐ考えるようにしてる!
限られた時間をいかに楽しく過ごすか
ーおっちーさんがチャレンジし続けられるのはなぜですか?
だってさ〜、人生ぶっちゃけいつ死ぬかわからないじゃん?(笑)幸いなことに、僕はさ18歳の時に一回見えてるおっちーは死んでるんだよ。そして新たに今度は見えない人生が始まって…一回どん底まで落ちたから怖いものはないね。みんなもある日突然交通事故に遭う?ガンの発見で余命半年?とかあるかもしれないじゃん?本当に生きている時間っていうのは限られてる。ってことは、その限られている時間を楽しく生きないともったいない!だからこそ、僕は過去を活かしていかに明日を楽しく生きるかしか考えてない。
結局僕らは1人では生きていけない
ーそんなポジティブなおっちーさんにとって「自分のここが好き」っていうところはありますか?
好きな所ね~良い意味で寂しがりやなところかな(笑)基本的に人が好きなんだよね。例えばさ、僕って一日中ずっとパソコンに向き合ってプログラミングとかするの無理なんだよ。やっぱり人と直接接して、ありがとうって言われるの嬉しいじゃない。だからnoteとかインスタで「いいね」がくると嬉しいし、凄くモチベーションに繋がる。
そういう「人に対しての執着心」みたいなのがあるところは好きっていうか、自分の人生を楽しくしてるなって感じがするな。
ーでは、おっちーさんにとって大切なものは何ですか?
人!仕事でもプライベートでもSNSでもさ、結局は人じゃない?
僕らって自分1人でできていると思い込んでいる事でも、実は周りにサポートしてくれる人がいる。結局1人では生きていけないんだよね。
例えば子供の頃は親のお金で生活させてもらうし、夢だってさ誰かに憧れて抱いたりするでしょ。
ただ、時には人間関係で失敗しちゃうこともあると思う。でもさ自分の人生において大切な人は、いくらひどいことしちゃっても失敗しても、自分が本当に関係を修復しようと思えばできるんだよね。僕自身も若い頃は親や家族に反抗したこともあったけど、大人になってからちゃんと向き合って謝って許してもらえたしね。
障がい者への固定概念をぶち壊したい!
ーなるほど。それではおっちーさんにとって幸せを感じるのはどんな時ですか?
そうだね。今僕が自分自身のミッションとして掲げてるのが「視覚障害者の未来を明るくする」ってことなんだ。そのために今も色々な媒体を通して発信しているんだけど、実は将来の目標はタレントになってバラエティに出てることなんだよね。目が見えないことを笑えるような社会をつくりたいと思ってて。
例えばさ、パラアスリートの強さとか美しさにフォーカスしたテレビ番組ってよく見かけると思うんだよ。ただそれは、たしかに障がい者の一つの側面ではあるけど全てではないんだ。
あとはさ、君らがまちで困っている障がい者を見かけて声をかけてあげたとするじゃない。でもその人が「うるせえよ。ほっとけよ。」って手を振り払ってきたらどう思うかな。きっと君らは一生障がい者に声をかけるのを躊躇ってしまうよね?ほとんどの障がい者は声をかけてもらってありがたいと思ってるのに、少数のそういうイメージで障がい者への偏見なんかが深まってしまうのっておかしいと思うんだ。
だから僕はさ、そういう障がい者に対する偏ったイメージをぶち壊していきたいんだよね。
そういう意味では、この自分のミッションに対して努力している時が一番幸せかな。
ーそんなおっちーさんに最後の質問です。今後新たに挑戦しようと思っていることを教えてください
いっぱいあるな~(笑)まあでも一つは起業してみたいってことだな。今は会社員としてマッサージの仕事してるんだけど、一生会社員でいる気は全く無いんだよね。最近ビジネスの勉強をしてて自分でも何か始めてみたいっていうのは思ってる。
あとは世界中旅して、貧困な国に行ってブラインドサッカーを普及してみたいとかね。やりたいことは色々あるよ。
ただそれを一言でまとめると、「僕と一瞬でも関わった人の人生を心の豊かにしたい」ってとこだと思う。やっぱり僕は0が1になる瞬間が好きなんだよ。だから常に新しい出会いを求めていきたいし出会った人たちを幸せにしていきたいな。
編集後記
視覚障がいと向き合い、常にポジティブなおっちーさん。障がいを受容できるようになるまでの心の変化や、前向きで明るい性格の秘訣を知ることができました。おっちーさんとお話すると、限られた時間の中で人とともに前を向いて歩んでいこうという気持ちになりますね。
落合さん、ありがとうございました。
*記事内の写真は落合さんよりご提供
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